養鶏の始まりと、軍鶏
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地鶏(じどり)とは、明治時代までに日本で飼育が始まった鶏の品種だ。
日本で養鶏が始まったのは、いつからかハッキリしないが、かなり昔から飼われていたらしい。
ただし様々な鶏を交配させて、盛んに品種を作り出したのは、江戸時代くらいからだと考えられる。
三代将軍家光の頃には、水戸光圀が養鶏を始めたとか。
また伊達政宗が仙台を開拓し、伊達藩を開き、そこで養鶏を始めたとか。
八代将軍吉宗の頃には、浪人や下級武士たちが、収入の足しにするために鶏を飼い、卵を売ってしのいでいたとか。
こういう風に江戸時代の初期から、関東では採卵養鶏が始まっていた。
そして江戸時代末期には、名古屋の尾張藩士が養鶏を始め、明治初期には、病気に強い名古屋コーチン(名古屋種)が誕生した。
ただし江戸時代は、肉を食べるためのモノではなく、鶏は卵を採るために飼っていたらしい。
キジや鴨など野鳥の料理法はあったが、鶏の料理は一般的ではなかった。
というのも卵を目的に飼う鶏は、肉付きがあまり良くなく、食べるよりも卵を採る方が良かったようだ。
闘鶏のために飼われた軍鶏(しゃも)の方が、肉付きも良く味も良かった。
軍鶏はタイ王国(しゃむ)から来た鶏で、闘鶏のために盛んに品種改良が為され、弱い軍鶏は軍鶏鍋にして食べていたらしい。
体重が5キロを超える大きな種類もあって、江戸時代末期には、地鶏と掛け合わせた交雑種(シャモオトシ)を食用として、生産するようになった。
つまり江戸時代の鶏料理と言えば軍鶏鍋だったわけだな。
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焼き鳥が一般化したのは昭和40年以降
鶏肉が食べられ始めたのは、江戸時代末期のころから、軍鶏(しゃも)と地鶏を掛け合わせた「しゃもおとし」ができた頃からだという。
というのも軍鶏というのは、闘鶏用に改良された品種で、肉付きが良く5キロを超えるような大きなモノもあったが、年間100コくらいしか卵を産まない。
そこで多産系の地鶏と掛け合わせて、その肉を軍鶏鍋として食べていたらしい。
ただし鶏は一般的に痩せていて、なかなか食用には供されなかったし、非常に高価な肉だったらしい。
そのため、明治時代になって肉食が始まっても、鶏肉は気軽に食べることができなかった。
しかし明治時代末に、アメリカからロードアイランドレッドという、年間200コ~250コもの卵を産み、肉用にも適した品種が輸入された。
また戦後、ブロイラーの育成技術が、アメリカからもたらされた。
これによって鶏肉が大量生産できるようになり、焼き鳥で安く鶏肉が食べられるようになった。
さらにケンタッキーフライドチキンや、鶏唐揚げなどの鶏料理などが普及し、昭和40年頃になってようやく、日本に鶏肉食が定着したわけだ。
そうしてブロイラーの鶏肉が普及し尽くしたあと、味の良い地鶏が再注目されるようになった。
日本三大地鶏の特徴
名古屋種(名古屋コーチン)、比内地鶏(ひないじどり)、薩摩地鶏を、日本三大地鶏と呼ぶ。
名古屋コーチン(愛知)とは
江戸時代後半に尾張藩士によって養鶏が始められ、明治時代初期に中国のコーチン種(バフコーチン)と、地鶏を掛け合わせて作られた品種。
体重は2キロちょっとという小型鶏だが、卵を年間200コ以上も産み、一時は日本で最も飼われていた。
比内地鶏(ひないじどり/秋田)
比内地鶏は、天然記念物の比内鶏のオスと、ロードアイランドレッドのメスの交雑種。
比内鶏は軍鶏の血も入っているが、小型で年間産卵数も少ないため、食用には向かない。
薩摩地鶏・さつま地鶏(鹿児島)
さつま地鶏は、天然記念物の薩摩鶏の雄と、ロードアイランドレッドのメスの交雑種。